
最近、私のまわりでにぎやかなことがある。何か?
生活保護を受給している人たちの家賃がかわるんです。それも、住んでいる部屋の面積によって、家賃がかわってくるんです。
確かに、私たちの支援している人が多く生活している【釜ヶ崎】という地域には、簡易宿泊所(ドヤ)、実質、3畳くらいの部屋で、トイレとか台所とか共同なんですけど、その部屋を生活保護の居室としている人いっぱいいます。
でも、その生活、ぴん・きり、なんですよね。
その部屋の広さでも、談話室があって、手すりがついて、洋式のトイレがあって、…という建物の構造にも手を加えているだけではなく、薬をしっかり決まった状態で飲めるように手伝ったり、お金を使いすぎて困ることがないように金銭管理の手伝いをしてくれたり、それ以外にも、介護保険の申請、緊急時の対応、積み立てをして秋の日帰り旅行など、家族にするのと同じようなことを、家賃だけで他の対価なくてもやっている
『サポーティブハウス』 があります。
でも、
『サポーティブハウス』 でもドヤ転用のアパートでも家賃一緒に下がるんです。それも一気に6000円。
『サポーティブハウス』 の方が当然スタッフの数が多いんですけど、そのスタッフを減らさないといけないかもしれないっていう危機的な状態なんです。
行政に対して、
『サポーティブハウス』 がやっている
「家族的な支援」 について話をしても、「支援」と「家賃」は別といいます。
国の役人さんは「地方に裁量権を残しました」と言うし、市職員は「支援内容についてはわかりますが、その対価は区にまかせます。釜ヶ崎だけ特別というわけには…」と言うし、区の職員は「家賃は厚生労働省の通達でどうしようもない」と言う。
どこのだれが責任とるんだ。たらいまわし。この地域で試みられている
「家族的な支援」って、決して、釜ヶ崎のための支援じゃないんですよ。最近新聞で“東京からの移住”の話が出てますけど、都市で、単身・高齢者が、今住んでいる地域で、どうやって生活していくか、それもお金がなくてもね、という試みなんです。すごく
【公益性】の高いものなんですけどね。場所がたまたま釜ヶ崎ってだけで、そういう色眼鏡で見られてしまうし、その色眼鏡をかけてしまう行政の頭の固い人たちがいる。
「家族的な支援」 がどれだけ大事で、それに対する対価は必要だってこと気づかない。そしてその対価は、新しく施設をつくったりする予算よりもはるかに少ない。「無責任でかつ考えることを放棄した集団」=「行政」の人たちがこれだけ増えて、そんな時代に生きている自分が悲しい。